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歴史談義の間

1 :管領 佐竹重隆 :2005/04/05(火) 23:25 ID:8o6kGxoY
スレ住人の皆様に歴史談義を楽しんで頂くために、幕府として一室設けました。
人物でも建造物でもその他なんでも、話し合いたいテーマや歴史に関する疑問など気軽に出して頂ければと存じます。
幕臣が話題の盛り立てのお手伝い致します。尚、ネタ及びネタに対する掛け合いは本スレでお願い致します。

24 :管領 佐竹重隆 :2005/04/21(木) 09:49 ID:zH3eylj2
長門は中国ですね。
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/kokuhulist.html
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html

仰る通り中国の守は正六位下、大国は従五位上、
上国は従五位下、下国は従六位下が相当ですね。

25 :鎌倉公方榊原康長 :2005/04/21(木) 19:24 ID:YMEw8Xok
>>24
一瞬中国地方って意味かとオモタ>長門

26 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/25(月) 20:56 ID:9gvCROxc
突然、思ったのですが源氏物語の頭中将の出世スピードって物凄い
ような気がするのですが、どうなんでしょうか?

27 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 18:24 ID:t0DSwTGI
源氏物語は詳しくないのですが、左大臣の子供だからでは……
光源氏詳しい方、教えてください。

28 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/26(火) 19:17 ID:D0W1XHME
光源氏・・・いいなぁ〜

29 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 22:50 ID:t0DSwTGI
京極殿は源氏好みですか。
私は田舎武者ゆえ京にはあこがれがありますが、どちらかというと江戸っ子が好きだったりして。
榊原卿は正義の武将って感じですが。

30 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/26(火) 23:19 ID:D0W1XHME
いやいや、光源氏みたいに女性を次々と・・・ゲホッ×2!!!
失礼しました。

31 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 23:24 ID:t0DSwTGI
私の中学の同級生に平安美人と渾名された人(男)がおりましたよ。
お多福にご用心。おっとあんまり言うと 山野さ〜んに叱られる!

32 :山野野衾 :2005/05/13(金) 21:11 ID:7J1KK1iE
>26
「乙女」で六位から始まり、慶滋保胤みたいな内記の弟子になって愚痴
をこぼしていた夕霧とは、ずいぶん違いますね。
大納言兼左大将になったのは、それから13年後です。
紫式部の生きた時代、昇進が早かったのが藤原伊周。
19歳で参議→権中納言、20歳で権大納言。早過ぎます。
紫式部の父為時は学生出で国司になっていましたし、対比させたいと
いうもくろみもあったのかもしれません。

>31
まあ、あまり太り過ぎると、『栄花物語』ほかで馬鹿にされていますが。
馬鹿にされたと言えば、好色な老女源内侍でしょうが、モデルは実在。
紫式部の亡夫の兄の妻であった・・・という説があります。
辞職した時期がはっきりしませんが、『源氏物語』流布後の事とも。
いたたまれなくなったのかもしれません。仲が悪かったのか。

33 :管領 佐竹重隆 :2005/05/16(月) 14:53 ID:4jvK5B3k
その伊周も……やはり道長は相当な強運

そもそも父兼家からして、長兄伊尹が長命だったら(花山院の外祖父)、兼通がもう少し長生きだったら……
そして伊周が道長を抜いて内大臣に抜擢された翌年、道隆、道兼が薨ずるとは……
左右するのは生命力+繁殖力ですね。

34 :山野野衾 :2005/05/17(火) 00:15 ID:kfNtPqOI
道長自身もなかなかのものでしたが、妻子の長生きぶりも目立ちます。
牛乳や蜂蜜(当時は強壮剤でもあった)を口にしていた実資も。

35 :管領 佐竹重隆 :2005/05/17(火) 16:20 ID:WwbZmBjc
>>34 上東門院87歳、頼通83歳、教通80歳ですものね。本人は62歳で薨じてますが。
しかし長徳元年の疫病は酷いですよね。
3月〜6月に道隆、道兼、左大臣源重信を始め、公卿8人が世を去るとは……

実資は90歳ですか。すごい。

36 :山野野衾 :2005/05/18(水) 00:16 ID:1sV8lf9s
正暦五〜長徳元年は、天平以来の酷い年でしたね。
某井戸の水を飲めば疫病から逃れる事が出来るという流言が飛び交い、
検非違使は溝の死骸を取り除けさせ、朝廷は流言事件から一月も経た
ない内に、石塔供養を行わせている。
『三宝絵』に「よろづの春のつつしみ」と記されていた石塔供養は、息災
を目的とした行事として、広く知られていました。
『枕草子』の、「大納言まゐりたまひて」はこの頃の話。

37 :管領 佐竹重隆 :2005/05/18(水) 15:47 ID:DLkHXOGc
藤原為頼が長徳元年疫病の時
昔見侍りし人々、おほく亡くなりたることを嘆くを見侍りて

「世の中にあらましかばと思ふ人なきが多くもなりにけるかな」

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