■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50 スレ内検索
歴史談義の間
- 1 :管領 佐竹重隆 :2005/04/05(火) 23:25 ID:8o6kGxoY
- スレ住人の皆様に歴史談義を楽しんで頂くために、幕府として一室設けました。
人物でも建造物でもその他なんでも、話し合いたいテーマや歴史に関する疑問など気軽に出して頂ければと存じます。
幕臣が話題の盛り立てのお手伝い致します。尚、ネタ及びネタに対する掛け合いは本スレでお願い致します。
- 2 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 00:21 ID:i3ziPO66
- 地元の藩校
水戸弘道館は敷地面積(当時)5万4000坪と日本最大の藩校。
文館はもとより馬場、槍、剣術、柔術、天文、医術、乳牛までいた総合大学のような藩校。
大日本史編纂の彰考館と並び、水戸学の中心です。
皆様の身近に藩校はありませんか?
- 3 :武田より手紙です :2005/04/06(水) 01:33 ID:Ogvo2QgY
- 先ずは新しい部屋が完成したことを御祝いいたします。帰国したあかつきにはたくさんネタを出せるよう今から貯めときますね。では上様、佐竹様、中将様、京極様、御壮健であられますよう御祈りしております。鎌倉卿と関白殿下にも宜しくお伝えください。
- 4 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/06(水) 15:33 ID:XVk7gs2.
- 管領殿。
私が住んでいる所は江戸時代を通して旗本領でした。
旗本領も代官を設置して統治するんですかね?
- 5 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 17:24 ID:i3ziPO66
- なかなか難しいですね(笑)
天領を統治するのが代官で、旗本領は家老か用人のようです。
一口に旗本と言っても、二百石以上一万石未満と幅がありますが、
旗本自身は江戸に定住していたようです。
石高の多少によって家老も用人も置く旗本、用人しか抱えない旗本、
用人すら抱えられない旗本がいたようです。
中大名以上の城にあたるのが陣屋ですね。ここに家老又は用人を置いたみたいです。
ちょっと調べてみましたが、もっと詳しい方、更に教えてください。
- 6 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 17:38 ID:i3ziPO66
- 失礼代官を置いた旗本もありますね、結構。
例
http://www2.ocn.ne.jp/~yosino/sub1.htm
- 7 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 18:09 ID:i3ziPO66
- 京極殿、私のお気に入り
江戸時代の大名・旗本を考える
http://homepage3.nifty.com/ksatake/
江戸三百藩HTML便覧
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
- 8 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/06(水) 18:17 ID:XVk7gs2.
- では私も提供しますよ。
日本の歴史学講座
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/
- 9 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 18:23 ID:i3ziPO66
- うれしいからついでにもう一丁。
歴史館2
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/mm73.html
しかし、こういうホームページ作っちゃう人は偉大ですね。
- 10 :鎌倉亜相 :2005/04/06(水) 18:38 ID:ToxLBmTE
- 佐竹殿プロデュースの新たなる間ができたことを心よりお祝い申し上げます。
藩校ですか。父が土佐の生まれなので土佐の藩校が思い出深いですね。
歴史の皮肉と言うべきか藩校建設には長宗我部遺臣の末裔が何人か関わっていますね。吉田東洋なんかもそうですし。
維新ものを読むと歴史のロマンと言うべきか、はたまた長年に渡る怨恨の産物か。
事実は小説よりも…ですね。
- 11 :管領 佐竹重隆 :2005/04/06(水) 18:52 ID:i3ziPO66
- 南国土佐ですか、三回程行った事があります。
ちょっと脱線しますが、かつおを始め食べ物がおいしいですね。
美人も多いし。。。
高知城も桂浜も良いですね。空港は高知龍馬空港ですし。
水戸と土佐の共通点は、勿論維新のつながりもありますが、
もっと単純なところでは、地元の人を土佐っぽ と 水戸っぽ言う事。
- 12 :鎌倉亜相 :2005/04/06(水) 19:06 ID:1ZJ0RCbU
- へぇ!そうなんですか。知らなかった。。
ちなみに桂浜の裏手には車で行くと気づかないんですが本山氏の浦戸城跡と長宗我部氏の浦戸城跡がありますね。
まぁ天守台ぐらいしか見るべきところは無いんですが。
- 13 :鎌倉亜相 :2005/04/06(水) 19:06 ID:U/BmVAi6
- あ…脱線スマソ。。
- 14 :管領 佐竹重隆 :2005/04/07(木) 15:15 ID:/BEWaVhs
- あっ 桂浜行きましたが、立ち寄れませんでした。残念。
きっとまたいつか行きますので、その時には……
- 15 :管領 佐竹重隆 :2005/04/08(金) 16:18 ID:K92DSi42
- 予告……御所様より信州松本城のお話。。多分有り。
- 16 :管領 佐竹重隆 :2005/04/11(月) 07:55 ID:f.4PVy4k
- 御所様のご帰朝、ワクワク ワクワク
- 17 :六条源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :2005/04/11(月) 17:26 ID:UCpn34NA
- おお、帰洛致したぞ。松本城は天守閣のみ残存しており、平城なりに軍略に富んだつくりであった。
別名、烏城といわれるほど、黒塗りのこじんまりとした天守であったが、本丸は1700年代に焼けて再建されず、
天守のみで藩庁が営まれていたのじゃな。
五階建てであったが、階段が急でな。いや苦労したぞ。筋肉痛になってしまった。
もともと、深志城といって、小笠原氏の支流が所有したが、武田信玄との塩尻峠の合戦以降、その国境を一挙に本拠地
松本まで近づけてきた武田勢の猛攻の前にその手に落ちると、しばらく武田が領有したが、本能寺の変の混乱期にあって、かって
上杉の庇護を受けていた長時の子 小笠原貞慶が奪取。深志城は松本城と改名された。
小笠原が下総に転封となった後、本来、血統的には譜代にいるべき、石川康長が父の豊臣方への寝返りがために外様に甘んじていたが、大久保長安事件
に連座し改易。徳川家康を今川から織田信秀に引き渡した戸田康光の曾孫 松平康長(家康異父妹婿、松平姓を賜る)が入封、堀田、水野と城主が転じた後、
再び戸田松平家が転封されてきて明治に至った。松本県の県庁であったのを最後に国宝として保存されたという。
明治以降、近代国家建設の中にあって、旧物破壊の風潮があり、多くの国宝級の城が破壊される中、松本領内有志の代表、市川某の功績があって
破損を免れ、現在に至るという。市川さん、松本城を守ってくれてどうもありがとう。
- 18 :六条源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :2005/04/11(月) 17:30 ID:UCpn34NA
- 今月末はまた、越中国に旅立たねばならぬ。。
先年は安房国の館山城を見たが、ライトアップされていて、展示品も大分充実している。
お城らしさといえば、館山城はほぼ博物館と化しているので、松本城にはかなわぬがな。
最近、余はウィキペディアの日本史の方ばかり頑張っているので、お留守が多くなっていた様じゃ。
すまんのぅ。治安も大分落ち着いてきてよかったのぅ。
- 19 :鎌倉公方榊原康長 :2005/04/11(月) 18:35 ID:Yq0sIkrk
- お帰りなさいませ。。
- 20 :六条源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :2005/04/11(月) 20:52 ID:UCpn34NA
- 松本は綺麗な町だなぁ。東京よりも気温は低いし、大自然の山野も近く感じるが、
市内はごくごく上品な町づくりで都会だし、ゴミもひとつ落ちていない。
寒いのが嫌でなく、東京にこだわらないのなら、住みやすいところではなかろうか。。
- 21 :六条源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :2005/04/11(月) 20:52 ID:UCpn34NA
- これは、鎌倉御所。ただいま。
- 22 :管領 佐竹重隆 :2005/04/12(火) 09:53 ID:O4mw//9.
- 御所様お帰りなさいませ。
私もかつて一度、松本城に行きましたが記憶の彼方……
天気の良い日でお堀に映える天守が、美しかったのを覚えているぐらいです。
松本は良いまちですよね。
ウィキペディアですか。。さすがに御所様。ある意味うらやましく存じます。
お好きなことに没頭なされていて……
私はといえば、仕事に副業(?)にやらねばならぬことが多くて……おっと脱線。
山野様も見えられておりますので、スレもよろしくお願い致します。
- 23 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/18(月) 19:04 ID:5bkXNOeY
- 私の官位は正六位下・長門守ですが
正六位下に相当する国司は大国の介か中国の守なんですね。
と言う事は長門国は中国なんですか?
- 24 :管領 佐竹重隆 :2005/04/21(木) 09:49 ID:zH3eylj2
- 長門は中国ですね。
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/kokuhulist.html
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
仰る通り中国の守は正六位下、大国は従五位上、
上国は従五位下、下国は従六位下が相当ですね。
- 25 :鎌倉公方榊原康長 :2005/04/21(木) 19:24 ID:YMEw8Xok
- >>24
一瞬中国地方って意味かとオモタ>長門
- 26 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/25(月) 20:56 ID:9gvCROxc
- 突然、思ったのですが源氏物語の頭中将の出世スピードって物凄い
ような気がするのですが、どうなんでしょうか?
- 27 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 18:24 ID:t0DSwTGI
- 源氏物語は詳しくないのですが、左大臣の子供だからでは……
光源氏詳しい方、教えてください。
- 28 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/26(火) 19:17 ID:D0W1XHME
- 光源氏・・・いいなぁ〜
- 29 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 22:50 ID:t0DSwTGI
- 京極殿は源氏好みですか。
私は田舎武者ゆえ京にはあこがれがありますが、どちらかというと江戸っ子が好きだったりして。
榊原卿は正義の武将って感じですが。
- 30 :近江守護 京極高経 ◆C7xf/e0zZ. :2005/04/26(火) 23:19 ID:D0W1XHME
- いやいや、光源氏みたいに女性を次々と・・・ゲホッ×2!!!
失礼しました。
- 31 :管領 佐竹重隆 :2005/04/26(火) 23:24 ID:t0DSwTGI
- 私の中学の同級生に平安美人と渾名された人(男)がおりましたよ。
お多福にご用心。おっとあんまり言うと 山野さ〜んに叱られる!
- 32 :山野野衾 :2005/05/13(金) 21:11 ID:7J1KK1iE
- >26
「乙女」で六位から始まり、慶滋保胤みたいな内記の弟子になって愚痴
をこぼしていた夕霧とは、ずいぶん違いますね。
大納言兼左大将になったのは、それから13年後です。
紫式部の生きた時代、昇進が早かったのが藤原伊周。
19歳で参議→権中納言、20歳で権大納言。早過ぎます。
紫式部の父為時は学生出で国司になっていましたし、対比させたいと
いうもくろみもあったのかもしれません。
>31
まあ、あまり太り過ぎると、『栄花物語』ほかで馬鹿にされていますが。
馬鹿にされたと言えば、好色な老女源内侍でしょうが、モデルは実在。
紫式部の亡夫の兄の妻であった・・・という説があります。
辞職した時期がはっきりしませんが、『源氏物語』流布後の事とも。
いたたまれなくなったのかもしれません。仲が悪かったのか。
- 33 :管領 佐竹重隆 :2005/05/16(月) 14:53 ID:4jvK5B3k
- その伊周も……やはり道長は相当な強運
そもそも父兼家からして、長兄伊尹が長命だったら(花山院の外祖父)、兼通がもう少し長生きだったら……
そして伊周が道長を抜いて内大臣に抜擢された翌年、道隆、道兼が薨ずるとは……
左右するのは生命力+繁殖力ですね。
- 34 :山野野衾 :2005/05/17(火) 00:15 ID:kfNtPqOI
- 道長自身もなかなかのものでしたが、妻子の長生きぶりも目立ちます。
牛乳や蜂蜜(当時は強壮剤でもあった)を口にしていた実資も。
- 35 :管領 佐竹重隆 :2005/05/17(火) 16:20 ID:WwbZmBjc
- >>34 上東門院87歳、頼通83歳、教通80歳ですものね。本人は62歳で薨じてますが。
しかし長徳元年の疫病は酷いですよね。
3月〜6月に道隆、道兼、左大臣源重信を始め、公卿8人が世を去るとは……
実資は90歳ですか。すごい。
- 36 :山野野衾 :2005/05/18(水) 00:16 ID:1sV8lf9s
- 正暦五〜長徳元年は、天平以来の酷い年でしたね。
某井戸の水を飲めば疫病から逃れる事が出来るという流言が飛び交い、
検非違使は溝の死骸を取り除けさせ、朝廷は流言事件から一月も経た
ない内に、石塔供養を行わせている。
『三宝絵』に「よろづの春のつつしみ」と記されていた石塔供養は、息災
を目的とした行事として、広く知られていました。
『枕草子』の、「大納言まゐりたまひて」はこの頃の話。
- 37 :管領 佐竹重隆 :2005/05/18(水) 15:47 ID:DLkHXOGc
- 藤原為頼が長徳元年疫病の時
昔見侍りし人々、おほく亡くなりたることを嘆くを見侍りて
「世の中にあらましかばと思ふ人なきが多くもなりにけるかな」
10 KB
掲示板に戻る 全部 次100 最新50
read.cgi ver2.0 beta3 (03/08/25)